ホーム > 文化・スポーツ > 文化財・民俗芸能 > 神戸の土木遺産と歴史 > 神戸市内の土木遺産の紹介 > 布引五本松堰堤(ぬのびきごほんまつえんてい)
最終更新日:2025年8月21日
ページID:6865
ここから本文です。
中央区に所在する布引五本松堰堤(ぬのびきごほんまつえんてい)は日本初の水道専用重力式ダムで1900年に竣工しました。ヨーロッパ古典様式の風格を備える堤体には、当時の最新技術が盛り込まれており、今なお神戸の水を支える重要な社会基盤として布引谷に佇んでいます。
竣工 | 1900年(明治33年)ごろ |
---|---|
施工者 | 神戸市水道局 |
所在地 | 中央区葺合町字山郡 |
仕様 | 水道用ダム(直線型重力堰堤(粗石コンクリート、表面張石)) |
寸法 | 総高33.33メートル、堤長110.30メートル、有効貯水容量759,689立方メートル |
用途 | 上水道 |
登録 |
重要文化財 2000年(平成12年)7月5日 |
布引五本松堰堤(通称「布引ダム」)は、水道専用の重力式コンクリートダムとして我が国初の施設です。明治33年(1900年)に竣工しました。
生田川は摩耶山近傍の人工湖・穂高湖に源を発し、布引谷へと注ぎます。本堰堤はその流れを堰き止めて布引貯水池を形成し、貯水は左岸の吐水口から滝となって堤下へ落下します。水はさらに布引の滝(雄滝・雌滝)を経て谷を下り、山陽新幹線「新神戸駅」の高架下を貫流して市街地を流れ、大阪湾へ注ぎます。この流れの一部は雌滝直下の取水堰から送水管に取り込まれ、砂子橋で生田川を越えて奥平野浄水場へ送られ、今日も中央区西部および兵庫区を潤しています。
技術的特徴として、過去の海外におけるダム決壊事故を教訓に、浸透水による揚圧力を低減するための対策が講じられています。具体的には、堤体内に直径1.5インチの鍛鉄管157本を設置するなど、当時として画期的な工法が採用され、規模も卓抜したものとなりました。
意匠面では、建設時の型枠として用いた奥行45〜60センチメートルの切石(布積み)を活かし、堤体表面は石積み化粧となっています。また、天端部にはデンティル(歯飾り)を連ね、ヨーロッパ古典様式の風格を備えます。さらに、頂部側壁の石造銘板には、神戸の水道の草創期を支えた吉村長策・佐野藤次郎・浅見忠治の名が英文で刻まれています。
周辺一帯は、新神戸駅から六甲山へ続くハイキングコースとして整備されています。オシドリなどの野鳥が訪れる自然環境が広がり、観察所や休憩所も設けられています。夜間にはライトアップが施され、「神戸布引ロープウェイ」や遊歩道からその景観を望むことができます。
布引五本松堰堤を含む布引水源地の九施設は、平成18年(2006年)7月に国の重要文化財に指定されています。本堰堤は、神戸の水”KOBE WATER”を象徴する歴史的土木構造物として、市民の憩いの場であるとともに、優れた観光資源としても活用されています。
1853年(嘉永6年)に相模国(現在の神奈川県)浦賀への黒船の来航を契機に、約215年間にわたっての鎖国が解かれました。紆余曲折を経て、1867年(慶応3年)に開港した兵庫津(のちの神戸港)では、外国人居留地の造成や生田川の付け替えが進み、一気に市街地の様相を呈するようになりました。ところが、1890年(明治23年)にはコレラによる疫禍が神戸をはじめ全国を襲い、市内で千余人の死者を出す惨事となりました。居留地では旧・居留地下水渠に代表される下水道が整備されていたものの、区域外ではインフラ整備が各村落に委ねられていたため、防疫が行き届かなかったためです。この惨事を教訓として、また急激な都市化・人口増加に伴う飲料水不足も相まって、市内では清潔な上水道整備の機運が高まりました。
そこで1889年(明治22年)に市制が施行されたばかりの鳴滝初代市長率いる神戸市は、1892年(明治25年)、内務省のお雇い外国人であったイギリス人技師 W.K.バルトンに水道施設の設計を委託しました。その案は、内面石張り・外面芝張りの土堰堤で、堰堤高65尺、貯水容量約31万トンとされました。以後、市会は水道施設のための巨額投資をめぐって紛糾しましたが、いよいよ1893年(明治26年)に水道敷設を可決します。日清戦争のため着工の遅れがありつつも、佐野藤次郎技師によりコンクリート堰堤への変更などの修正が施され、ようやく1900年(明治33年)に現在の神戸水道の原型である布引を水源とする配水系統が実現することになります。この際、佐野技師と先達の吉村長策技師らが率いた神戸市水道事務所により、布引谷を堰き止めるために築造されたものが、日本初の重力式コンクリートダムである布引五本松堰堤です。
ダム建設にあたっては、ドコービル社(Decaubille:フランス)のナローゲージが導入され、馬を使ってセメント等の資材が運搬されました。完成後は、手すりの鉄骨や管理橋の構造材などに転用されています。
その後、1907年(明治40年)には分水施設、翌1908年(明治41年)には締め切り堰堤および放水路隧道(トンネル)が増設されます。脆い花崗岩が広く分布する六甲山系では大雨時に土砂を含む濁水が流出するため、上流で分水して濁水をバイパスし、ダム湖への土砂堆積を抑制することが狙いでした。
1995年(平成7年)に発生した阪神・淡路大震災では大きな崩落等の損傷は免れましたが、漏水が増加したため、現行のダム設計基準に準じた補強工事を実施し、今日に至ります。